善き原因を作れ
何人も神から与えられたる善と福とを外から奪うことは出来ないのである。奪われる者は奪われる心を持っているのである。いかにあなたの環境が不調和な苛辣なものであろうとも、そのような環境を呼び寄せるような「因」は自分の心の内にあったのである。原子爆弾の被害の下にいても助かる人と助からぬ人とがあるのは、考えて見れば因縁不可思議である。因縁の「因」は原因であり、それは「心」にある。心の波長に合うものが集って来るのである。因縁の「縁」は触れ合いである。「因」がなければ「縁」に触れても結果は生じない。よき原因を作ることだ。心を清らかに澄み切らすことだ。人を多勢救けて置くことだ。それが皆、よい原因となる。
(『新版幸福を招く365章』P.211より)


釈迦が2500年も前に説いた「因果の法則」

これに「縁」を加えて「因縁果の法則」ともいわれる。

「原因があって結果を生じる」という当たり前にして最もなる法則である。

その原因というものは、どうやら自分の心のうちにあるらしい。

自分の心のうちに良き種を植えれば植えるほど良き実を結び、悪しき種を植えれば植えるほど悪しき実を結んでいくのである。

ここでいう種とは、我々が普段使う言葉のことだ。表情、思念、発声音。

心はこれらのコトバで動かしていく。

普段、どのような言葉を使うかで我々の運命は良くも悪くも変わっていくのである。

どれだけの人がこのことを自覚して生きているだろうか。

どれだけの人が言葉を大切にして生きているのだろうか。

2500年も前に説かれた因果の法則、当たり前にして絶対なる法則である。

我々の人生は、好む好まざるに関係なくこの法則が働き続けている。