読者は古事記や仏典を読まれたことがあるだろうか。

もしくは、聖書やコーランを読まれたことはあるだろうか。

おそらく、何かしらの信仰を持っている人や興味のある人以外は、読む機会が少ないと思う。

ビジネス書などの一般書物と比べてとっつきにくい部分があるし、仮に読んだとしても現代人には分かりにくい部分が多いだろう。

しかし、仏典や古事記、聖書やコーランなどの宗教書物には、人間にとって一番大切なことが書いてあるのである。それは、巷にあふれるビジネス書や自己啓発本などに書かれるようなものではない。


なぜなら、一般人の書いた浅い内容の書物と、聖人の言葉というのは全く持ってレベルが違うからだ。

したがって、ビジネス書を何十冊と読むよりも、イエスの「山上の垂訓」を覚えた方がよっぽどためになるし、「般若心経」の意味を調べて読み解いたほうが人格の向上につながると筆者は思う。

それは、何十億人という人間が宗教を信仰している事実を鑑みれば、考えなくても分かることなのかもしれない。

人間の心の深いところに穿ち入り、魂が救われるくらいの感動を覚える。

そこに大切なものがあるからこそ、何十億人という人が宗教を信仰をしているのである。

もちろん、それを逆手に取って怪しい商売をしたり、金儲けだけを考えたりする団体も誠に残念ながら存在する。

ただし、それは決して宗教ではない。

仮に宗教団体の登録がされてあっても、本来の宗教とはかけ離れているのだ。

そんなものに引っかからないための簡単な判断方法は、以前に述べたので、ぜひ参考にしてみていただきたい。

カルトと宗教を区別する7つの項目

今此処にいて如来と一体である
「世間虚仮・如来常住」と云う言葉が仏教にあります。「世間」と云うのは現象界のことであります。如来と云うのは、尽十方に満つる神様のことであります。神のみが常にありて、不滅だと云うことであります。これを親鸞聖人は「火宅無常の世界はよろづのこと、みなもて、そらことたはこと、真あることなきに、ただ念仏のみぞまことにおはします」と歎異鈔の中で教えていられるのであります。

念仏と云うのは親鸞に於ては「南無阿弥陀仏」即ち「阿弥陀仏に帰命する」換言すれば、「阿弥陀仏と一体」と云うことのみ「まこと」すなわち真実である実相であると云われたのであります。「南無阿弥陀仏」を死んでから極楽浄土へ行かせて貰う座席券を買う語だなどと考えると如来の力を人間の迷で限ることになるのであります。今此処にいて阿弥陀仏と一体なのであります。

(『新版幸福を招く365章』P.95より)