先ず神の国と神の義を求めよ
「先ず神の国と神の義を求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし。」とキリストは教えたのである。そして「神の国とは汝らの内に在り」と註釈し給うているのである。先ず自分の内にある「神」と「神の国」とを知らなければならないのである。多くの間違った人々の宗教的信仰と云うものは、外にある神に頼って、「内に在る神」を知らず、依頼心を起して、神に泣き附くことを以って祈りであると誤解していたのである。「自分の内に在る神」を忘れて、「外にある神」に泣き附くような卑怯なことを、神は決して悦び給わないのである。「内にある神」とは「内なる生命力」であり、「内なる智慧」であり、「内なる愛」である。自分の内にある生命力と智慧と愛とを充分認識して、其れをはたらき出すことが、「先ず神の国を求める」ことであり、それを「神の国の義(秩序)」に於て実践することが「神の義」を求めることである。

(『新版幸福を招く365章』P.31より)


多くの人は、神という言葉を知っていても、神の意味を知らない。神の意味を知っていても、神の意味が間違っている。

神とは、大生命のことである。

神とは、生かす力のことである。

我々に宿る「良心」が神である。

神は愛であり、善であり、正義である。

悪を行う神は、神ではない。

したがって、神の起した聖戦などというものは存在しない。それは神の定義が間違っている。

神の国に戦争はなく、病気なく、貧困なく、苦しみや悩みなども存在しないからである。

また、神を否定することは、愛を否定することである。その神の定義も間違っている。

我々のうちには、たしかに愛が存在するからである。

神の素晴らしき善と、智慧と、愛と、生命力が我々のうちに、我々の内部に宿っている。

このことを知ることが神の国を求めることなのである。

もし、現代人に欠けているものがあるとしたら、この神の国を切実に求めることだろう

物質的な豊かさに幸せがあると思っているうちは、神の国は得られない。それは移り変わり、消えてなくなるものだからである。

多くの現代人が物質的に豊かなのにもかかわらず、幸せを得られない原因がここにある。

自分の幸せだけを考えているうちは、神の義は得られない。自分と他人とは、神の国では本来一体だからである。

人を幸せにすることが自分自身の幸せに結びつく。

我々は、もっと神を求め、人を愛し、社会を愛し、世界中の国々を愛し、地球を愛する必要があるのである。

我々に宿る善が神なのだから、神という言葉が気に入らなければ、仏でもよいし、大自然でもよいのだ。