皆さん、こんにちは。
本日もありがとうございます。
今日のテーマは「天分と真の愛について」です。
真の愛は放つ
真の愛は放つと云うことである。そのものの生命のままにそのものを行かしめることである。朝顔の蔓に牡丹の花を咲かせようとすることではない。小鳥を籠の中に閉じ込めることではなく、自由に山野に放つが如く、自分の子供を放つと云うことである。個人個人は神の創造の一つ一つの中心であるのである。個人個人の自由を縛るのは、神の創造の一つ一つの中心を束縛すると云うことである。それは個人に対する冒瀆であるばかりでなく、神の創造のみわざに対する冒瀆である。
(『新版光明法語 道の巻』P.242より)
皆さんは、執着の愛情と真の愛情を区別することができますでしょうか。
その愛情は本物でしょうか、偽物でしょうか。
そんなこと分からないと言われてしまうかもしれませんが、私たち人間は本物と偽物を区別する力を内に宿しています。
つまり、本物と偽物を区別できない人などこの世に存在しないのです。
もし、区別できない人がいるとすれば、区別する目を養っていないか、忘れているか、うまく引き出せていないだけだと思います。
その愛情が本物なのか、それとも偽物なのか。
内なる自分は知っているという話です。
さて、今日は天分と真の愛についてというテーマになりますが、真の愛については引用文に書いてあるとおりになります。
執着のない愛、放つ愛、相手を包み込むような本当の愛情。
そういう心を常に養っておきたいものです。
特に自分の子供においてはこの執着が強い傾向にあります。親の執着強くして、子供がまっすぐ伸びることはありません。
もちろん、無関心であれということではなく、「ただ放っておく」ということとは違います。
ここで大切なのは、自分の愛情の中に執着がないか。相手を信じて放つことができているか。
このことをよくよく考えておく必要があるということです。
次に天分ですが、世の中には「朝顔の蔓に牡丹の花を咲かせようとする」人がいるものです。
しかし、朝顔の蔓には朝顔の花を咲かせるべきであって、牡丹を咲かせてもうまくいきません。
そういう意味で天分というものは、”そのものの生命のままにそのものを行かせる”ところにあります。
自分の思い通りにするという単純な話ではなく、相手の本質を見抜いて導いていくことが肝心なのです。
わが子に限らず、周囲の人々においても同じことがいえると思います。
天分を生かし、愛情をもって人を導いていきたいものです。